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世田谷城の縄張りについて

 砂上楼閣創刊号で特集した「世田谷城」の論文を公開します。城郭研究者、同好者の方々のご意見等をお待ちしています。なお、一部図版を入れるなどオリジナルに手を加えてありますのであらかじめご了承ください。

       世田谷城の縄張りについて         河 原 英 俊
世田谷を知る上で最も重要な史料として「世田谷領二十ヶ村絵図」(世田谷区立郷土資料館所蔵)がある。文化三年(一八〇六)に世田谷の領主井伊直亮の命を受けた世田谷代官荒居市郎兵衛以謙が世田谷領の村々を測量して作成したもので、測量技術、縮尺の精度は高いといわれる。以前から知られた絵図であるが、絵図に描かれた世田谷城について詳細に見たところ、曲輪の輪郭や虎口がわかるほどに細かく描き込まれており復元の基礎となる第一級の史料であることがわかった。
以下、「世田谷領二十ヶ村絵図」を基にして世田谷城の縄張を概観するとともに土塁や堀の現状等を踏まえて補足し考察する。
世田谷城2

世田谷城周辺の地形と主要な建造物を図から見ると、まず大きく東西に蛇行する烏山川に張り出した舌状台地に世田谷城が描き出され、城の東には勝国寺と元宿、西に「宮之坂」とあるのが世田谷八幡宮、南へ下ったところには世田谷の旧領主であった吉良家の菩提寺勝光院が見える。そして城跡の北側に隣接して豪徳寺の境内と建物が描かれている。
世田谷城の部分をみると「吉良左兵衛督旧跡 古城山御林 天正十八年大ママ閤東征ノ頃没落候」「千手院旧跡」との書き込みがある。さらに拡大して詳細に見ると薄墨で土塁と樹木が描かきこまれており、曲輪の輪郭がこれによって把握できた。
絵図に描かれた曲輪を見てみよう。
まず「古城山」と書かれた所にちょうど陸上競技場のトラックのような南北に延びる楕円形をした大きな曲輪(以降第一曲輪と呼ぶ)がある。西側の土塁は南から北側へ直線で向かいながら東へカーブし「天正」とある文字の付近まで延びていることがわかる。
世田谷城本郭土塁

  写真1北側から見た第一曲輪の西側土塁跡
東側の土塁は明確ではないが「吉良左兵衛督」と書かれた部分に相当する。第一曲輪は最大の規模であり、後で述べるが周辺を別の曲輪に囲まれていることから主郭曲輪であったとことは確実である。
現状で言えば標高三十八メートル、東京都の豪徳寺住宅一帯がこれに該当し土塁(写真1)と堀が一部残存している。住宅建設により破壊されているが中核の構造物があったと思われる中庭は一段高くなっており遺構が残存している可能性が高い。 
また土塁については西側の豪徳寺駐車場入口付近から東にかけてすべてなくなっている。終戦直後まで一部開口部があったが東側へ向って連続していたとする証言があり、絵図面の通り連続して土塁があったと考えられる。
次に第一曲輪を囲む曲輪を時計回りに見てみよう。
まず、東に丸形の曲輪が二つ(以下上を第二曲輪、下を第三曲輪と呼ぶ)描かれている。いずれも舌状台地の地形に乗って張り出すように設けられている。第二曲輪は「没落候」の文字付近より土塁が続き半円を描きながら南で第三曲輪と接する。「天正一八年云々」と書かれている付近は不明確だが第二曲輪に含まれていたと推定する。
第三曲輪は第二曲輪から区画され南に半円を描きながら次の曲輪に接する。現状では、東側は豪徳寺所有地を挟んで住宅地になっており、その間には南北に縦断する土塁(写真2・以下南北土塁という)が残存しているが、絵図にあるような丸形の曲輪は確認ができない。しかし南北土塁をよく観察すると、東側へ張り出して先が崩れた跡が残る土塁が二ヵ所で見られ曲輪を区画する土塁が延びていたと推定できることから、南北土塁東側に第二曲輪と第三曲輪の二つの独立した曲輪が道路を越えて広がっていたと見られる。東側先端部で三十三メートル、曲輪中心部で三十五メートルの標高を測り、第一曲輪からは三メートルから五メートルほど低い地点になる。南北土塁の西側には並行した土塁と堀があり、その間に曲輪があったと推定してきたが絵図では曲輪を確認することはできず、二重の堀がめぐらされていたことも含めて見直さなければならい。なお、西寄りの堀跡の底から凸状の構造物が発掘されていることから障子堀であったと見られる。
次に四つ目の丸形の曲輪(以下第四曲輪という)を見てみる。
第三曲輪に隣接した第四曲輪は台地を利用して南に丸く大きく張り出し、先端は烏山川と目と鼻の先で接している。また北側では林を挟んで第一曲輪と接している。南側は世田谷八幡宮からの水路が流れ、さらに南に烏山川があり二重の天然の水堀となっていた。
現状では世田谷城阯公園の一帯に当たるが、南に張り出した土塁は開墾や城山通りと南北に延びる道との造成などにより早い時期に削平されたと思われる。また中央付近の小山はずばぬけて高く標高四十五メートルを測る。平たんになった頂上部分には何らかの構造物があったのではないかと考えられる。また北側の林部分、第一曲輪と接する位置には深い堀と土塁といった構造物も見られ強固な構えがうかがえる。
次に第四曲輪に続く土塁が少しふくらみをもちながら林とともに西へ延びて豪徳寺参道の総門に接し、坂を北へ上がり、同寺の山門で東へカーブするように延びている。ちょうど第一曲輪の西側に「千手院旧跡」と書かれている南北に細長い一帯が一つの曲輪(以下第五曲輪という)として描かれている。また総門付近にはN字形の道が描かれているが食違の虎口であった可能性が高い。
現状では西側に南北に一条の土塁だけが豪徳寺参道と豪徳寺住宅の間に残存しており、並行して描かれたもう一条の土塁は失われていることがわかる。また東西に延びる土塁も同様である。ただ第一曲輪と第五曲輪の土塁の間に道が存在し豪徳寺側は一段高くなっているのでこの間は曲輪というより堀であった可能性もあろう。第一曲輪の北側にある豪徳寺駐車場からは千手院の跡が発掘により発見されている。この千手院は天正二十年に勝光院前(絵図に書き込みあり)へ引き寺した。
次に細長い第五曲輪の土塁が東先で接した部分に四角い囲いが描かれている。よく見ると東側から延びた道が囲いを直線で入り、中で右(北側)に曲がって囲いから出てすぐ左手(西側)に向い二本の木立を経て豪徳寺の東門前付近に至っていることがわかる。この四角い囲いは形状からして桝形の虎口とみられる。
世田谷城 - コピー

これは世田谷城の大手門が現在の豪徳寺東門付近にあったとする伝承と一致するが、後述するとおり豪徳寺境内の曲輪が判明しない限り桝形の形状を確定することはできない。なお、この桝形付近から北へ延びる土塁があったという証言がある。
豪徳寺境内は本堂を初め諸堂が描き込まれ、総門から西側へ木柵が描かれているが土塁及び曲輪は描かれていない。現況においては境内と墓地の中間付近や本堂周辺に土塁状の土盛りや堀らしき跡が残存していることから従来大規模な曲輪があったとされてきたが、山門から東に延びる土塁(第五曲輪を形成)が絵図に描かれている以外は何もなく曲輪の存在は確認することができない。また参道の西側には林が描かれているものの明確な土塁は見当たらない。現況では南北に延びる土塁状の構造物が一部残存しているので第五曲輪の土塁の一部か西側を補完する曲輪があったとも思われるが確定は難しい。以上の絵図と現況等の観察から縄張をまとめてみる。 
① 第一曲輪から第五曲輪までの五つの曲輪が確認できた。
② 第一曲輪を取り囲むように四つの曲輪が廻らされている縄張となっている。
③ 第一曲輪は規模が大きいことに加え、周囲を四つの曲輪で囲まれていることから主郭曲輪であったと断定する。
④ 東側には大きく張り出した丸形の第二曲輪と第三曲輪が南北土塁の東側に存在し第二曲輪、第三曲輪は区道を挟んで豪徳寺二丁目六番及び七番付近に向かって広がっていた。南北土塁は豪徳寺二丁目一四番三二号裏付近から南へ向かっておよそ一二〇メートル続く。
⑤ 南側の第四曲輪はやや規模が大きく烏山川へ向かって丸く広がっている。最も標高の高い地点があり強固な防御がなされていたことがわかる。
⑥ 第一曲輪の西側を守る第五曲輪は第一曲輪の土塁に沿うように細長く、北側にも土塁が続いていた。また発掘により第一曲輪の北側の一段低い地(旧松下住宅、現豪徳寺駐車場)から千手院跡が見つかっている。千手院曲輪としてもよいだろう。
⑦ 虎口は二つあり、一つは第一曲輪と第五曲輪が接する地点(豪徳寺二丁目一四番城山通り信号付近から第五曲輪間)の南側N字型の道が食違虎口であったと推定する。もう一つは第二曲輪の北に位置する地点(豪徳寺二丁目一三番付近)で桝形虎口があったと推定する。
世田谷城2 (2)

⑧ 第二曲輪と第三曲輪の西側に南北土塁に沿って堀が発掘により確認されているが形状から障子堀と考えられる。また南北土塁と障子堀(または畝堀)は桝形虎口を経て接続しさらに北側へ続いていたと思われる。
⑨ 南北土塁の西側は複雑であるが第二曲輪と第三曲輪を支援する小型の曲輪であった可能性もあるだろうが、絵図からは二重の土塁と堀によって防御されていたと推定できる。このほか、土塁や堀の現況から見て豪徳寺書院を中心とした曲輪があり、また豪徳寺参道を挟んで第五曲輪の西側を補完する曲輪もあったと思われるが、絵図からは判断し難い。

この様に絵図から縄張を概観してきたが、江戸時代後期の製作になるもので必ずしも戦国時代の世田谷城を伝えたものかとなれば疑問は残るとしなければならない。とはいえ製作者が特に世田谷城を意識して測量を行い曲輪の状況を薄墨を用いて描いたと思われる点、丸い曲輪や虎口がよく描かれている点、さらに発掘調査の結果や現況、伝承等を踏まえれば、総体的に見て「天正十八年頃没落」時点の状況をよく伝えているのではないかと見られる。世田谷城は東南方面を重視し主郭曲輪を四つの曲輪が取り巻くちょうど「こぶし型」をした群郭式の極めて堅固な縄張で築かれていたことと、一方で、豪徳寺境内については明確な曲輪を見いだせないことが了解されたことは大きな成果を得たといえよう。なお、この絵図を作成するに際して下書きの図面があったと思われるが、今日に伝わっていないことは極めて遺憾であるといわざるを得ない。
世田谷城跡保存会では、豪徳寺境内を含めた広範な一帯を同時期の城郭として捉える考え方ではなく、数次にわたって城郭の改変があったと想定し把握すべきであると考えてきた。世田谷城が武蔵国の一部である世田谷、目黒地方を支配する拠点となっていたと考えられることからして、政治情勢や経済的な発展と衰退による影響を強く受けたことを考えれば城郭も不変ではありえないからである。
世田谷城については三田義春著「世田谷の中世城塞」に負うところが大きく、豪徳寺境内に平時の館があり、城址公園一帯が戦闘時の詰めの城とし、十三もの郭からなる広範かつ同時期的な縄張の推定が広く周知され一部の城郭研究者から評価されてきたところである。また近年、城郭研究家の八巻孝夫氏は「世田谷城-その研究史と城跡利用について-」と題した論考を出され、世田谷城について研究の変遷をたどりながら総括的に検証されている。三田氏の説にも触れられ「(三田氏の)こうした復元から見えてきた世田谷城の姿は、今までの世田谷城研究の枠を越えた」と評価している。一方で、考古学的手法によらぬ部分があるとし、自身が作図した「世田谷城図」では従来の範囲において図を起こしておられる。
絵図は三田氏の推論に対し疑問を提示したことになるだけではなく、三田氏以前の城郭研究者らによる城郭範囲(構造は相違がある)とほぼ一致することも了解されたことになる。さらに「世田谷の中世城塞」について付け加えれば、同書に掲載された世田谷区内の他の城砦類についても極めて客観性に乏しく再検討を加えなければならないものがあることをこの際指摘しておく。
世田谷城の城郭復元に一歩大きく踏み出す収穫があったが、課題についても何点か浮かび上がってきた。
ア、 城郭の範囲が示された一方で、豪徳寺境内の土塁状の痕跡をどう理解すべきか。
イ、 南北土塁の西側の構築物を二重の土塁と堀と考えるか、または第二曲輪、第三曲輪を補完する曲輪とみるのか。
ウ、 第五曲輪の西側には土塁状の痕跡があり、補完する曲輪があったとみるべきか。
エ、 桝形の経路が図面通りだとすれば豪徳寺境内にもう一つの曲輪が想定できるがどう理解すればよいか。
オ、 城郭とかかわりの強い宿、そして社寺、道路やその構造物である辻や鍵の手、河川、さらに河川を利用した水運、河岸、橋の存在等も視野に入れて検討すべきではないか。
今後の保存と復元の活動については、歴史家や城郭研究家の専門的な意見と議論に委ねる必要があり今後の課題としたい。
「世田谷領二十ヶ村絵図」については測量が正確であり縮尺にも信頼がもてることから、世田谷城について詳細に見分したところ、縄張の輪郭がわかるまで詳細に描かれていることが判明し極めて貴重なデータを持つ第一級の史料であることは冒頭で述べた通りである。絵図を基に他の史料、発掘調査の結果、現状や伝承などを比較検討して把握すればより実像に迫ることができるだろうと考えている。本稿はその一歩に過ぎないが、世田谷城跡の保存と復元に関心を抱き、世田谷城跡保存会の活動にご理解いただければ幸いである。(世田谷城跡保存会会長)
世田谷城全景

国士舘大学校舎から見た全景
○史料

「世田谷領二十ヶ村絵図」原図縮尺1/6500文化三年(一八〇六)作製。一五一〇×二二二〇世田谷区立郷土資料館所蔵(「世田谷の土地」平成二七年一〇月発行に収載されている)

○主な参考文献

『世田谷区立郷土資料館蔵「世田谷領二十ヶ村絵図」の成立年代について‐用賀村絵図との比較によって‐』武田庸二郎著(「武州荏原郡用賀村名主飯田家文書」収載。平成二六年三月世田谷区立郷土資料館発行)

『豪徳寺綜合調査報告書』世田谷区教育委員会昭和六二年三月発行

『世田谷城跡』平成一八年三月世田谷区教育委員会発行

『東京都の中世城館』平成一八年三月東京都教育委員会編戎光祥出版発行

『世田谷城‐その研究史と城跡利用について-』(八巻孝夫著「中世城郭研究第二八号」収載。平成二六年七月三一日八巻孝夫編集中世城郭研究会発行)


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世田谷城の縄張り

石造遺跡 喜多見若狭守重政没字碑

名称  喜多見若狭守重政没字碑
所在地 桑名市千代田町一〇番地  真教寺
調査概要 
石碑法量 総高 二七〇〇mm 内訳 台座部分三七〇mm 本体部分二〇六〇mm 笠部分二七〇mm 本体幅四五〇mm 内法三七〇mm
現況 真教寺墓地内 石碑は東へ向かって傾いている。本体の上部にセメントによる補修痕跡がある。
碑文内容 東面 細字が多数刻まれている 西面 同 南面 南無阿弥陀仏千日別行廻向 北面 大鏡院殿等の文字が刻まれている。
伝聞(桑名市史及び話者安田憲遵住職未亡人)元禄六年七月二十三日、喜多見重政が亡くなり藩主の菩提寺である照源寺に埋葬しようとしたが幕府の許可が下りず、末寺に当たる浄土宗西龍寺境内地に葬って石碑を建てた。それがこの没字碑である。明治維新の時、西龍寺の住職らは藩主とともに会津、函館と転戦し行くへ知れずとなった。明治二十一年、廃寺同然となっていたのを浄土真宗が買い取って同三十三年安田了応が開山となり復興した。石碑は区画整理によって真教寺西隣の地蔵堂にあったが、昭和四十年代に自動車事故や家庭不和などの不幸が地域で連続して起こり、「若狭守のたたりではないか。供養したい」という地元住民の意を受けた住職が現在地に移転供養した。
喜多見重政 江戸時代前期の大名。喜多見氏は江戸氏を称し戦国時代には小田原北条氏に従い世田谷西部に勢力を持っていた。小田原落城後、喜多見勝忠が徳川家の旗本に取り立てられ、重政の代に徳川綱吉の抜擢を受けて御側用人となり二万石の大名にのし上がった。元禄二年二月二日、勤務怠慢により処罰を受け領地没収、家名断絶の上、桑名藩に配流となる。突然の失脚はのちに綱吉が制定した生類憐みの令の実施について諌言したとする説、また同年一月三日に起きた叔父喜多見重恒の刃傷事件が影響したとする説のほかに柳沢吉保の謀略説をいう者もいる。当時の御側用人が罷免されたケースは多く見受けられるが重政の処罰は群を抜いて重く、死後の扱いも厳しいのであった。諸記録によれば重政の武士としての評判は極めてよかった。元禄六年七月二十三日同地で病没。
【平成九年十月三十一日調査 写真及び拓本記録有 河原英俊】
追記 平成二十二年十一月一日、大阪の某氏より石碑がなくなっているとの連絡があり、取材したしたところ、住職の交代があり平成十八年春ころまでに本堂再建及び墓地整備に際して取り除かれたことがわかった。同寺は処分先等を明らかにしなかったので市役所へ聞き込みをしたところ、処分を請け負った石材店が判明した。三重県内で大手の「石市商会」(桑名市吉津町十八番地)であり、問い合わせると社長だと名乗る男が電話口に出て「墓地の整理を請け負った際に石碑の処分も請け負った」とあっさりと認めた。しかし、その石碑を知っていながら、処分方法ついては「若い者が山中へでもほんなげたんだろう」というので「それでは不法投棄だ。本当か」と質すと「若い連中がやった。俺は見てないし知らない」と言って電話を切った。真教寺は海辺に近く土地が砂地である点、真教寺と石材店が処分方法を明らかにしない点、また巨大かつ重量のある石碑を処分するには多額の経費がかかる点などから推測すると、もっとも簡単で手っ取り早く処分を行うには地中に埋けることしか考えられない。なお桑名市文化課では文化財として保護の対象としていなかった。なんともお粗末な顛末であった。
石碑や墓石は半永久的なものと考えがちだが、寺院に訊ねてみると無縁になったり壊れたり、不用になったりで処分しているようだ。歴史的に貴重と思われる石碑等を保護することが困難になりつつあるのではないか、
*無断転載、引用を禁ずる。

相撲遺跡 渋谷氷川神社土俵及び桟敷


名称    渋谷氷川神社の土俵及び桟敷
所在地   渋谷区東二丁目五番氷川神社公園地内
取材概要
土俵等の規模    
土俵 基礎部分一辺六・七メートル、上部六・三メートル四方、高さ四十センチの台形。外角土俵(正方形土俵)五・六メートル四方、勝負土俵(円俵)直径五メートル。土は荒木田。木造屋根付き。四方柱は土俵から七十センチほど離して斜めに屋根を支える。
桟敷 北側に半円形(半月形)状になった斜面(写真奥)があり、現況は花壇と階段が設けられているが元は桟敷であったと思われる。高さ約五メートル。斜面上の地形や規模等において世田谷八幡宮の土俵及び桟敷に類似している。
伝承 金王相撲または渋谷相撲といわれ古くから相撲が執り行われ見物人で賑わったという。氷川神社の境内で行われたにもかかわらず「金王相撲」と称されたのは、近くに金王八幡神社があり社殿の再興か修復などに際して勧進相撲が行われたからかもしれない。金王八幡神社境内一帯は中世渋谷氏の館跡とされるが痕跡はない。一方氷川神社本殿の北側に土盛りが見られるが土塁であるかどうかは不明である。近くに常盤松公園があり世田谷城主吉良頼康の妾常盤姫に関わる伝説地とされる。
DSCN2437.jpg

【平成二十九年六月六日調査 写真記録有 河原英俊】
*無断転載、引用を禁ずる。
プロフィール

H.KAWAHARA

Author:H.KAWAHARA
河原英俊 1955年生 歴史研究家 主著「河口慧海講義録」「河口慧海チベットを駆け抜けた男」「世田谷代田における河口慧海」「世田谷の文化財」「世田谷火災年表史」「浄真寺珂碩上人倚像」「浄真寺五劫思惟阿弥陀如来坐像」「国分寺市祥応寺史」「国分寺市鳳林院の歴史と文化財」「田無市円成院の歴史と文化財」等。主にフィールドワークに基づく調査研究を多数行う。世田谷区、八王子市等生涯学習講演会講師。世田谷区誌研究会学術顧問、世田谷城跡保存会会長。

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