相撲遺跡 羽咋市「唐戸山霊跡」と垂仁天皇皇子の御陵

相撲遺跡  羽咋市「唐戸山霊跡」と垂仁天皇皇子の御陵
所在地  羽咋市南中央町 羽咋市役所南裏手 国道二四九号線羽咋中学校交差点より二手に分かれる岐路があり左手(東側、旧道か)の道へ入った道路脇に位置する。道路の位置関係でいうと明確な辻に当たる。この道路先には日吉神社がある。
規模   おおよそ南北九十メートル、東西七十メートル、深さ二十メートル(いずれも目測)のすり鉢状の窪みの底に土俵が築かれている。さらさらとした砂に近い地質で斜面には草が生え区画されていないが即席の観覧席となっている。土俵の大きさは基礎部分で十四メートル、上部六・三メートル四方の台形上(高さ四十センチ)に直径四メートルの丸い勝負俵が廻らされている。土台の周囲には水はけ用の側溝がある。仕様規模からして国技館の土俵に準ずるものと考えられ土は荒木田である。南端には日蓮宗慈照寺があり隣接する林内は塚状に見えるが建立時に削った土を盛ったものか古墳かは不明。市では把握していない。
顕彰碑等 北側の斜面上の松林の間と東側入口付近に力士に関する石碑が乱立されている。また東側に平屋一棟が建ち「資料館」となっている。なお入口の道路を挟んで反対側にも力士に関する石碑群がある。
伝承 垂仁天皇の皇子磐衝別命が羽咋を治め亡くなった際に当地の山土を削って運び御陵を造ったという。その塚は一キロほど北上した羽咋神社にある大塚(現陵墓参考地として宮内庁所管)であると伝えられている。御陵の完成を記念して唐戸山で相撲を開催したといい、古墳と相撲を関連付ける代表的遺跡の一つである。なお、土運搬の役を果たしたのは朝鮮半島から渡来した人々だといい「唐戸山」(唐は韓だという)の名が付いたという。
その他 羽咋市には羽咋七塚と呼ばれる七つの古墳がある。現存するのは大塚、大谷塚(磐衝別命の子が埋葬されたと伝わる。宮内庁所管)、宝塚、薬師塚の四つで、他に駅西口の姫塚、剣塚、駅東口から二〇〇メートルほど離れた公園内に痛子塚があったがいずれも塚は消滅し掲示板だけが残されている。いずれも垂仁天皇の皇子磐衝別命とその子孫に関連付けられている。唐戸山では毎年九月の第四土曜、日曜日に県内を中心にアマチュアの力士が集まり徹夜で相撲が執られる。
 なお七尾市小丸山城址内にある愛宕山(曲輪)に相撲場があったので見学する。土俵については園内工事中のため詳細に調査を行えなかったが遠目から見たところ土は荒木田で規模や形態は国技館の仕様に準ずる。鉄骨の屋根付きである。伝来は不明であるが武家と相撲を関連付ける一例とみることができる。
協力 羽咋市歴史民俗資料館
【平成二十九年三月十三日調査 写真記録有 河原英俊】
*無断転載、引用を禁ずる。



スポンサーサイト

相撲遺跡 八光山関と八王子永福稲荷神社

相撲遺跡 八光山と八王子永福稲荷神社
所在地 八王子市新町五-三
永福稲荷
永福稲荷は東西に横切る甲州街道と南北にまたがる滝山街道が交差する大和田町から浅川を渡って八王子宿へ入る地点に位置する。社が建つ一帯は字竹ノ鼻といい、古くから稲荷社があったが、宝暦六年(一七五六)八月に八光山関が勧進相撲を行い、伏見稲荷の御神体を勧請し再興した。東に隣接する竹の花公園には甲州街道の一里塚跡があり「史跡一里塚跡」の石碑と説明プレートが設置されている。その公園から一段高い位置に永福稲荷の社殿がある。境内には昭和十三年(一九三八)二月の創建経緯及び社殿境内等整備の記念碑、平成十九年(二〇〇七)十二月に飯塚昌市郎氏が造立した等身大の八光山関の石像、説明プレートが建つ。他に芭蕉句碑、庚申塔、手水舎がある。芭蕉句碑は「蝶の飛ぶばかり野中の日影かな」の句を八王子を代表する女流俳人松原星布の手により寛政十二年八月に建立された。「桑都九世松原庵太虚書」とある。また手水舎は朱塗りの四本柱に屋根付きで土俵を彷彿とさせる立派なものである。境内では八月二日に相撲を興行したと伝えられる。現在、九月の第一土曜日に「しょうが祭」と称して祭礼があり生姜と勝軍配が配られる。

八光山関の経歴
正徳二年(一七一二)上州前橋の出身。権五郎という。長じて八王子生糸問屋「嶋屋」(小嶋姓)に養子に入る。三代目当主を継ぐも力士となるため江戸に出て春日山に弟子入りする。寛延元年(一七四八)八月京都の場所において東前頭筆頭、同二年には西前頭筆頭となる。宝暦六年(一七五六)八月二日天下第一となり勧進相撲を開催し永福稲荷を再興した。安政二年(一七七四)五月六日歿。法名海信院宗玉日光信士。身丈六尺三寸(一メートル九〇センチ)。
【平成二十九年三月十二日調査 写真記録有 河原英俊】
*無断転載、引用を禁ずる。

漢学者土屋弘墓所調査記録

鳳洲土屋弘墓石及び土屋家墓所
     所在地豊島区染井霊園内 
   
鳳州墓石
      鳳州土屋弘
(正面)
      配  鋹子

(左) 大正十五年三月十五日歿
       行年八十六歳
(右) 昭和十八年二月十五日歿
       行年八十八歳

岡部長景碑文

(正面) 榊二株子爵岡部長景納
(左)  大正十五年三月十七日

土屋家墓石
(正面) 土屋家之墓
(左)  土屋基春 昭和十一年六月十九日
  土屋健吉 昭和十年二月二十日
  土屋新  大正十四年四月二十一日
  土屋初子 明治三十四年十一月二十五日
  土屋寿美子 明治四十五年一月十六日
  土屋美都子 大正三年六月六日
  芳林院妙春日寿大姉 昭和四十年一月二日歿
                土屋とし
(右) 健優院禎鶴日瑞居士 昭和五十二年六月十六日
            俗名健也 行年七十才
  健喜院妙瑞日恵大姉 昭和五十七年二月一日
            俗名由喜子 行年六十四才
(裏) 昭和十二年六月建之
            土屋健也
                   【平成二十九年二月二日(木)午後調査 河原英俊】

☆土屋弘 漢学者。字伯毅 号鳳洲。天保12年生まれ。岸和田藩士。相馬九方に古楽を学ぶ。のちに但馬の池田草庵について朱子学、陽明学を修める。明治維新後、堺県、奈良県の師範学校校長を経て上京し東洋大学教授。大正5年天皇に召され進講者となる。同15年没。青年だった河口慧海に学問を指導しその人生に多大な影響を与えた。
(無断転載、引用を一切禁ずる)
参照https://www.city.kishiwada.osaka.jp/site/toshokan/mini-18.html「明治の教育界に足跡を残した土屋弘」
プロフィール

H.KAWAHARA

Author:H.KAWAHARA
河原英俊 1955年生 歴史研究家 主著「河口慧海講義録」「河口慧海チベットを駆け抜けた男」「世田谷代田における河口慧海」「世田谷の文化財」「世田谷火災年表史」「浄真寺珂碩上人倚像」「浄真寺五劫思惟阿弥陀如来坐像」「国分寺市祥応寺史」「国分寺市鳳林院の歴史と文化財」「田無市円成院の歴史と文化財」等。主にフィールドワークに基づく調査研究を多数行う。世田谷区、八王子市等生涯学習講演会講師。世田谷区誌研究会学術顧問、世田谷城跡保存会会長。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR