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河口慧海の軌跡 チベット進入の日記から

                              河口慧海の軌跡
                    チベット進入の日記から

表記講演会の記録①
日時平成27年2月13日(金)午後1時30分   
会場世田谷区三軒茶屋キャロットタワー5F文化工房集会室

司会 お忙しい中、当生涯学習セミナー白鷺会の講演会においでいただきありがとうございます。本日は、日本人として初めてチベットへ入った探険家河口慧海の足跡について河原英俊先生の講演をお聴きいたします。
 まず、河原先生の経歴をご紹介させていただきます。先生は國學院大學法学部を卒業後、仏教大学で歴史を専攻され、世田谷区へ奉職後、世田谷区の文化財保護の職務に長年にわたり携わってこられました。「世田谷区の文化財」「浄真寺仏像修理報告書」などの著書のほか、多数の講演会の講師を務められております。また、ライフワークとして河口慧海の足跡を調査されております。
 現在、先生は、河口慧海顕彰会会長、世田谷区誌研究会学術顧問、世田谷城跡保存会副会長などの重責を果たされています。本日は、世田谷の歴史について語っていただくようお願いしたのですが、河口慧海が本年で生誕150年、没後70年に当たるそうで、10年前に発見された河口慧海の日記を元にチベット潜入を語っていただくこととあいなりました。では、河原先生、よろしくお願いいたします。
河原英俊講演
 皆様、こんにちは。ただいま、ご紹介いただきました河原でございます。
 まず、皆さんにお聞きしたいのですが、「河口慧海」はご存知でしょうか?
 だれもいませんか。そうですか、やはり、あまり知られていないようですね。やりがいがでてきました。今日は、ぜひ河口慧海の業績を少しでも皆さんに知っていただければ幸いに思います。
 では、お手元の配布資料をご覧ください。1枚目に慧海のアウトラインと関係地の写真を載せてあります。裏面は年譜です。年譜を見ながらお話をさせていただきます。
 慧海さんは、慶応2年(1866)1月12日、明治維新の直前になりますが、大阪の堺市北旅籠町で、樽桶職人の父善吉と母ツネの間に生まれました。幼名を定治郎といい、子どもの頃は家業をよく手伝っていたそうです。15歳のとき、近くの晩晴塾という私塾に学びますが、ここを主宰していた儒学者の土屋弘との出会いと師弟としての関係についてはあまり多く語られていませんが、彼との出会いがその後の慧海の考え方、人生を確定したかに思います。土屋は岸和田藩の儒学者でしたが、師を通じて吉田寅次郎、のちの吉田松陰の講義を聞き、その影響を受けて広く世界の情勢を勉強したと伝えられています。のちに探検家となった慧海は土屋の背中をとうして松陰の影を追っていたかもしれません。入学後ですが、釈迦の伝記を読み禁酒、禁肉食、不淫を誓ったと伝えられています。23歳ときに上京して、のちに東洋大学になる哲学館に入学します。土屋は哲学館の教授になっていますから、土屋との関係があったと想像されます。
 25歳のときに本所にあった五百羅漢寺で得度、出家して僧侶になります。明治24年、26歳のとき、宇治の万福寺にのぼり、別峰院で一切経を読み始めます。これは漢訳の一切経に疑問を抱き、いろいろある経典を読み比べる目的があったようですが、別峰院での研究で、漢訳のあいまいさや明らかに意図的な相違、誤訳を発見して、経典の不確定さに確信を抱いたといわれています。慧海は、漢訳の経典は話にならないと思ったのでしょう。ともかく、原典に接しなければ解決できないとさとります。
 日本国内でチベット語、パーリ語の研究に取り組みますが、彼が思い抱くような教師がおらず、語学の習得がままならない状況が続きました。ついには、明治25年、27歳ときにインド、チベット行を決意します。チベットには経典の原文に近いものが遺されていることを知ったからです。
 明治30年(1897)6月26日、神戸港を和泉丸で出航し、シンガポールを経由してインドのカルカッタに上陸します。時に慧海32歳。
 ダージリンを拠点にして、1年と5ヶ月にわたり本格的にチベット語を習得します。このときに慧海の教師になったのがチャンドラダースというインド人でした。この人は、チベット研究者であり、チベット、ネパールの状況に明るく、人脈を多く持っていたといわれています。彼にチベットの最新の情勢や協力を得られそうな人物の紹介を得ます。
 慧海は言葉や国情を知るだけでなく、チベット人の子どもとも接して童謡や遊びをなども習い、チベット人の習慣を身に着けようとします。これは、当時、チベットが鎖国をしており、自由に外国人が行き来できず、さらに外国人であることがわかれば殺されるからでした。日本の江戸時代、幕末には外国人が殺傷されますが、そういう状況だったのです。非常に危険な国というイメージがあったと思います。
 明治32年(1899)、34歳のときチベットへ入るため、インドからネパールへ入国します。首都のカトマンズを拠点にしてチベットの国内情勢を調べます。2月28日カトマンズを出発し、5月21日、ネパール西部のツァラン村に至ります。ここから、10年前に発見された日記と影像で、慧海がたどった第1回チベット進入ルートを見てみたいと思います。大変貴重な日記であり、今回こうして公開するのは初めてです(続く・以下有料の予定)

講演会資料1

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河口慧海講演会資料2

講演会資料3
河口慧海年譜

河口慧海講演会資料1

講演会資料1
河口慧海の略歴

河口慧海の軌跡 チベット進入の日記から

 平成27年1月12日は、河口慧海生誕150年に当たり、また、2月24日は没後70年になる。それを記念して、去る2月13日(金)、世田谷区三軒茶屋のキャロットタワーで「河口慧海の軌跡-日本人として初めてチベットへ入った探険家」と題して講演会を開催した。主催は世田谷区生涯学習セミナーOB会。講師は河原英俊。
 平成17年の暮れに発見された河口慧海のチベット進入を記した日記を元に、河口慧海の入蔵ルート、ラッサへの道のり、ダライラマとの謁見などのエピソードなどについて触れた。当日は、週末にもかかわらず、100名を越す方々が聴講され、山岳登山の窮状や盗賊や強盗に襲われた日記の事項を身を乗り出すように聞かれていた。また、晩年、世田谷代田に居を構えたことや九品仏浄真寺の記念碑などのいわれについて熱心にメモを取っていた。
 河口慧海の名前も知らない人が多かったが、慧海さんのことを着実に知ってもらえたことに感謝したい。今後も機会を見て入蔵時の日記を発表して伝えていきたいと思う。
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ekaikawaguchi

Author:ekaikawaguchi
晴耕雨読の初老親爺

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