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石造遺跡 喜多見若狭守重政没字碑

名称  喜多見若狭守重政没字碑
所在地 桑名市千代田町一〇番地  真教寺
調査概要 
石碑法量 総高 二七〇〇mm 内訳 台座部分三七〇mm 本体部分二〇六〇mm 笠部分二七〇mm 本体幅四五〇mm 内法三七〇mm
現況 真教寺墓地内 石碑は東へ向かって傾いている。本体の上部にセメントによる補修痕跡がある。
碑文内容 東面 細字が多数刻まれている 西面 同 南面 南無阿弥陀仏千日別行廻向 北面 大鏡院殿等の文字が刻まれている。
伝聞(桑名市史及び話者安田憲遵住職未亡人)元禄六年七月二十三日、喜多見重政が亡くなり藩主の菩提寺である照源寺に埋葬しようとしたが幕府の許可が下りず、末寺に当たる浄土宗西龍寺境内地に葬って石碑を建てた。それがこの没字碑である。明治維新の時、西龍寺の住職らは藩主とともに会津、函館と転戦し行くへ知れずとなった。明治二十一年、廃寺同然となっていたのを浄土真宗が買い取って同三十三年安田了応が開山となり復興した。石碑は区画整理によって真教寺西隣の地蔵堂にあったが、昭和四十年代に自動車事故や家庭不和などの不幸が地域で連続して起こり、「若狭守のたたりではないか。供養したい」という地元住民の意を受けた住職が現在地に移転供養した。
喜多見重政 江戸時代前期の大名。喜多見氏は江戸氏を称し戦国時代には小田原北条氏に従い世田谷西部に勢力を持っていた。小田原落城後、喜多見勝忠が徳川家の旗本に取り立てられ、重政の代に徳川綱吉の抜擢を受けて御側用人となり二万石の大名にのし上がった。元禄二年二月二日、勤務怠慢により処罰を受け領地没収、家名断絶の上、桑名藩に配流となる。突然の失脚はのちに綱吉が制定した生類憐みの令の実施について諌言したとする説、また同年一月三日に起きた叔父喜多見重恒の刃傷事件が影響したとする説のほかに柳沢吉保の謀略説をいう者もいる。当時の御側用人が罷免されたケースは多く見受けられるが重政の処罰は群を抜いて重く、死後の扱いも厳しいのであった。諸記録によれば重政の武士としての評判は極めてよかった。元禄六年七月二十三日同地で病没。
【平成九年十月三十一日調査 写真及び拓本記録有 河原英俊】
追記 平成二十二年十一月一日、大阪の某氏より石碑がなくなっているとの連絡があり、取材したしたところ、住職の交代があり平成十八年春ころまでに本堂再建及び墓地整備に際して取り除かれたことがわかった。同寺は処分先等を明らかにしなかったので市役所へ聞き込みをしたところ、処分を請け負った石材店が判明した。三重県内で大手の「石市商会」(桑名市吉津町十八番地)であり、問い合わせると社長だと名乗る男が電話口に出て「墓地の整理を請け負った際に石碑の処分も請け負った」とあっさりと認めた。しかし、その石碑を知っていながら、処分方法ついては「若い者が山中へでもほんなげたんだろう」というので「それでは不法投棄だ。本当か」と質すと「若い連中がやった。俺は見てないし知らない」と言って電話を切った。真教寺は海辺に近く土地が砂地である点、真教寺と石材店が処分方法を明らかにしない点、また巨大かつ重量のある石碑を処分するには多額の経費がかかる点などから推測すると、もっとも簡単で手っ取り早く処分を行うには地中に埋けることしか考えられない。なお桑名市文化課では文化財として保護の対象としていなかった。なんともお粗末な顛末であった。
石碑や墓石は半永久的なものと考えがちだが、寺院に訊ねてみると無縁になったり壊れたり、不用になったりで処分しているようだ。歴史的に貴重と思われる石碑等を保護することが困難になりつつあるのではないか、
*無断転載、引用を禁ずる。
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相撲遺跡 渋谷氷川神社土俵及び桟敷


名称    渋谷氷川神社の土俵及び桟敷
所在地   渋谷区東二丁目五番氷川神社公園地内
取材概要
土俵等の規模    
土俵 基礎部分一辺六・七メートル、上部六・三メートル四方、高さ四十センチの台形。外角土俵(正方形土俵)五・六メートル四方、勝負土俵(円俵)直径五メートル。土は荒木田。木造屋根付き。四方柱は土俵から七十センチほど離して斜めに屋根を支える。
桟敷 北側に半円形(半月形)状になった斜面(写真奥)があり、現況は花壇と階段が設けられているが元は桟敷であったと思われる。高さ約五メートル。斜面上の地形や規模等において世田谷八幡宮の土俵及び桟敷に類似している。
伝承 金王相撲または渋谷相撲といわれ古くから相撲が執り行われ見物人で賑わったという。氷川神社の境内で行われたにもかかわらず「金王相撲」と称されたのは、近くに金王八幡神社があり社殿の再興か修復などに際して勧進相撲が行われたからかもしれない。金王八幡神社境内一帯は中世渋谷氏の館跡とされるが痕跡はない。一方氷川神社本殿の北側に土盛りが見られるが土塁であるかどうかは不明である。近くに常盤松公園があり世田谷城主吉良頼康の妾常盤姫に関わる伝説地とされる。
DSCN2437.jpg

【平成二十九年六月六日調査 写真記録有 河原英俊】
*無断転載、引用を禁ずる。

相撲遺跡 世田谷八幡宮の土俵及び桟敷

名称   世田谷八幡宮の土俵及び桟敷
所在地  世田谷区宮坂一丁目二十六番
取材概要 
 土俵 基礎部分一辺七メートル、上部六・四メートル四方、高さ四〇センチの台形。外角土俵(正方形土俵)四・八メートル四方、勝負土俵(円俵)直径四・三メートル。土は荒木田。なお土俵の南側に長方形(六・五メートル×三メートル)の構築物がある。これは、行司、役員、東京農業大学相撲部監督などが着席するスペースである。
 桟敷 土俵の北側半分の斜面を利用して半円月型に七段からなる桟敷が構築されていある。最大幅二十八メートル、高さ五メートル。各段には長さ九〇センチの大谷石が一段目三十三個、二段目三十七個、以降三十三個が半円状に並べられている。中央には階段が設けられている。東側は浄化槽により桟敷が削られている。
DSCN2465.jpg

【平成二十九年六月六日調査 写真記録有 河原英俊】
※無断転載、引用を禁ずる。

貝塚遺跡 東山貝塚

名称 東山貝塚
所在 目黒区東山三丁目十一番東山貝塚公園周辺
取材 目黒川右岸一帯(東山二丁目及び三丁目)の東西三八〇メートル南北一四〇メートルに及ぶ広範囲の複数の地点から先土器時代、縄文時代、弥生時代の遺構が多数発見され「東山遺跡」と命名された。この遺跡の一部から縄文時代後期の貝塚が発見されハマグリ、アサリ、ツメタガイ、ヤマトシジミなどに混ざってクロダイ、アジ、フグ、コイの魚骨、イノシシやシカなどの動物の骨が見つかっている。目黒川流域では最上流部にあたり内陸型の貝塚である。縄文時代の海進によって周辺一帯が入り江状の海岸となっていたとするが、付近から貝層が発見されていないことから職住近接ではなく職住分離型の集落を築いていたとみられる。
東京三大貝塚(西ヶ原、丸山、東山)の一つ。貝塚は消滅しており東山貝塚公園内に説明プレートと擬似住居址が復元されている。
DSCN2449.jpg

【平成二十九年六月六日調査 写真記録有 河原英俊】
※無断転載、引用を禁ずる


相撲遺跡 荒木田土採取地

名称 荒木田土採取地
所在地 荒川区町屋七丁目三番 荒木田公園周辺 隅田川にかかる尾竹橋のたもと付近に位置する。現況は公園と交差点の名称で残るのみで採取地は消滅。
取材 土俵を築く土は古来より田んぼなどで得られる粘土質の土が用いられたといわれ、江戸では荒木田の土が最良であるとされる。荒木田土はこの地名によるもので、古くは荒木田原といって上野寛永寺の寺領であった。現在は町屋となっているが、一説に町屋は真土(まつち=良質の荒木田土)が転訛したものとされる。現在は面影もなくなってしまっているがここから船で下れば両国はすぐである。
DSCN2061.jpg

【平成二十九年三月一日調査 写真記録有 河原英俊】
※無断転載、引用を禁ずる。
プロフィール

H.KAWAHARA

Author:H.KAWAHARA
河原英俊 1955年生 歴史研究家 主著「河口慧海講義録」「河口慧海チベットを駆け抜けた男」「世田谷代田における河口慧海」「世田谷の文化財」「世田谷火災年表史」「浄真寺珂碩上人倚像」「浄真寺五劫思惟阿弥陀如来坐像」「国分寺市祥応寺史」「国分寺市鳳林院の歴史と文化財」「田無市円成院の歴史と文化財」等。主にフィールドワークに基づく調査研究を多数行う。世田谷区、八王子市等生涯学習講演会講師。世田谷区誌研究会学術顧問、世田谷城跡保存会会長。

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